昭和41年12月07日 朝の御理解



 皆さんもお読みになった事だろうと思いますけれども、今度あの三井教会の記念祭の記念品に「三井の光」というのが出ておりました。あれを初代の荒巻先生が、の手記をそのまま出してございます。ほんとに色々おかげを受けてこられて来たことを書いてございますのですけれども、御修行中のことが色々書いてありますのですけれども、御修行中のことが色々書いてあります。最後の頃に一時大変な御比礼を頂かれまして何十ッケ町村と云うあの近所の村からお参りして来るようになり。
 こりゃこのままおかげを頂いていったら、久留米の親教会の様な御比礼頂くのも、こりゃもう間の辺りだと感じられる様になった。その頃からお参りがだんだん少なくなって、御比礼を落としてしまいました、と言う様な事が書いてございますですね。おかげを受けた事のこげな風にして、おかげを受けると言った様な事を、まぁ言うて聞かせたり、言い残したりはしてありますけれども、そういう事を赤裸々に、自分の御信心の為に、おかげを落としたことを。
 、手記に残しておられるところに、初代の先生の偉さがあったと思うんですね。ほんとに確かに一時はですね、大変なやはり御比礼だったらしいですね。人間というものはそういう風に、調子が出て参りますと、順調になって参りますといつの間にか、その慢心が出るもんですね。ほんとに慢心は大怪我の元とこう仰いますが、椛目でも同じ様なことが言えると思うんですけれども。
 私がその事について思いますことは、慢心とは人を軽う見たり、物を軽う見たりする心だと言う様なことを頂いたことがございますけれども、一番の慢心は私あの神様を軽う見るようになる事だと思うですね。自分の力を非常に大きく見て、そして神様を軽く見るようになる。一生懸命御祈念を頂かなくなる。奉仕をおろそかにして、ま取次者であるとするなら奉仕をおろそかにするようになる。
 ですから、一生懸命の修行をさせて頂きたいと、願って居る時、一生懸命本気で改まらせて頂こうと思って居る時、ま、いうならば一生懸命、あのお参りさせて頂かねば居られないときならば、私は先ず慢心が出るような事はないと。慢心が出かかっても、その一生懸命の反省、一生懸命の修行、一生懸命のお参りさせて頂たいと言う様な時に、んならそこんところが、慢心になる前にお気付を頂く。大怪我の前に、おかげを頂くことが出来ると思うんですね。
 一つ折角神様が椛目全体の上に、お働きかけ下さっておるその働きを、鈍らせる様なことがあってはならん。それがそのまま慢心だと。私、昨日北野の教会の記念祭でございましたから、あの記念祭じゃございません、御大祭でございましたから、親先生のお伴してそちら参りましてから、これはもう何時ものことでざすけれども、私が留守をするということは分かっていないですよね、信者さん方皆。
 それでもやはりお参りがないことですね。昨日もやはり、もう何時も私申しますように、現在ここ六十枚づつ、六十名の三枚ですからさぶ六一八、百八十名位の方達がお届けがあるんですね。もう昨日はもう、やはりそんな訳でございましたから、少のうございましたですね。それから晩の御祈念を、ちょっと一時間ばかり前に奉仕させて頂きました。それからお参りあるんですね、サッサと。私がここでその、お取次をさせて頂きながら思うんですよ。ホウ百八十名、多分百八十名段々肉迫していくんですよね。
 お届けが夜の御祈念、終が終わるまでにです、どんどん、どんどんそのお届が。そしてもうほんとに百八十名というこの、二、三名かにまでやっぱり、昨日は昨夜はおかげ頂いたんですねえ。私がここへ座りさえすりゃ神様がおかげ下さる。けれどもこれが、私は慢心だったと思いますですね。私が座りさえすりゃおかげを下さる。どういう御都合やら、どういう御神意やら分からんのです。今朝、朝の御祈念こうやって、ここで奉仕させて頂いて思うのです。
 二、四、六ね、なら十名の方が、今日私の御理解頂いておって下さって、おるだけなんです。ほんとにそれを私は思うですねえ。もう私がというところには、もう既に慢心があるですね。成程昨夜の御祈念は多ございました。又御祈念前から、ずうっとそのお届けがですね続いてました。そしていうなら、日頃頂いて居るところの、百八十名というところに、もう五、六名でその百八十名というところまで、やっぱその何と申しましょうかね、遅れて走っておった人がダダーッと又抜いて行くような気持ちで。
 私昨日お取次させて頂きました気持ちがですね、ドンドン、ドンドン抜いて行く、ね、ははあどべだったつがドンドン、ドンドンその二番になった、三番になった。二番になった。このままで行くならば、一番になるぞと言う様に、その丁度その走り、二番時に抜いて行くような気持ちで、夕べはお届けさせて頂いたんです。ね、そしてからその私がやっぱ、私がここに座っとかなければですね。
 私居らなければ駄目。私が座っとれば例えばもうたとえば難しかろうという時ですね。ところが思いがけなく皆さんがお参りして来てから、そのそういうおかげを頂いたんで すけれども、そこに私の心の中にね、只横に座っとるだけだ それがもう慢心。もう今朝の朝の御祈念にこんなにはっきり現れておるんですからねえ。そして皆さんもうほんとにいよいよおかげを受けて、いかなければならんのでございますから、ね。
 の出どころのないように、いよいよ自分を深く反省させて貰い、物を軽う見たり、人を軽う見たりするような行動の時には、もう慢心の兆しがある時。まして神様の方を軽う見、例えば夕べなんかは私は、神様の方を軽う見て私の方を重く見た訳なんです。ほんとに気付かないところに、そうして慢心という心が出て来るですから、これが大怪我どもなる前にね、ま、こうやって私な今朝でも、気付かせて頂いたから有難いと思うですね。どうぞ慢心は大怪我の元なりと仰るのですから。
   どうぞ。